k-nakama: 1933年、ヒトラーによるナチス政権ができると、それを避けてドイツを脱出した、建築家、ブルーノ・タウトは、シベリア経由で、日本に亡命。その後のおよそ3年半を、日本で過ごします。.
k-nakama: 1933年、ヒトラーによるナチス政権ができると、それを避けてドイツを脱出した、建築家、ブルーノ・タウトは、シベリア経由で、日本に亡命。その後のおよそ3年半を、日本で過ごします。. このブルーノ・タウトの日本での3年半が、およそ80年が経った現在まで続くほどの深い爪跡を、日本の建築にのこすことになります。. と言っても、建築家ブルーノ・タウトが、日本で手掛けた建築は、実は、たった1つしかありません。. それも、40坪足らずの、住宅の地下室の改装。つまり、今でいうところの、住宅のリフォーム、たった1つだけです。. ドイツを逃れて、はるばる辿り着いた日本も、当時、戦争に向かって進みつつある時代でした。. 世界的な建築家であるブルーノ・タウトが、彼にふさわしい待遇を受けられるような状況では、なかったのかもしれません。. それでは、建築を手掛けることができなかった彼が、なぜ、日本の建築に、それほど大きな影響を及ぼすことになったのかと言えば、それは、日本の建築や文化に関する著作物によってです。. 日本に滞在したブルーノ・タウトは、多くの日本建築を観て歩き、それらに関する多くの批評をのこします。. たとえば…。. 日本の素材を活かしたシンプルな建築を、高く評価します。とくに、京都の桂離宮を、「泣きたくなるほど美しい」と絶賛します。. その一方で、日光東照宮のような装飾の多い建築を、「粗野な無趣味」、「退屈」、「イカモノ(キッチュ)」と罵倒します。. こうしたタウトの批評が、現在まで続く、日本の建築と言えば、素材を活かしたシンプルなデザイン、というイメージを決定づける、大きな一因にもなっています。. そうしたことを考えてみると、彼の批評は、昔ながらの日本の建築を、新しい視点から再評価したとも言えますが、その一方で、本来、多様なものがあったはずの日本の建築を、ある1つのイメージに固定してしまう呪縛にもなってしまった、と言えるのかもしれません。. そんなブルーノ・タウトが、日本でのほとんどの時間を過ごし、日本文化に関する著作の多くを行ったのが、ここ。. 群馬県高崎市郊外の少林山達磨寺。その境内の一隅にある草庵、洗心亭です。. 6畳と4畳半の二間があるだけの、本当に簡素な木造平屋建て。. ここで、ブルーノ・タウトは、建築家としての仕事がまったくない、およそ2年半を、散歩をしたり、スケッチをしたり、読書をしたりしながら、いわば、ブラブラと過ごしていました。. ただ、不思議なもので、タウト自身が自嘲気味に「建築家の休日」と語っていたという、これらの日々から、多くの著作が生まれ、それが結果的に、日本の建築や文化に、その後100年近く経った今なお癒えない、巨大な爪跡を残してしまうことになるのでした。. http://knakama.seesaa.net/article/388077087.htmlhttp://knakama.seesaa.net/article/388077088.htmlhttp://knakama.seesaa.net/article/388077091.htmlhttp://knakama.seesaa.net/article/388077092.html. -- source link